愛着をまとめる上で思ったことを素直に書きます。
「私は障害者なのか」と。
障害者手帳は持っていない。
それは個人的な信条であるから、誰かに強制する気もないし、自由だと思う。
ただ「障害者を納税者に」という自分の夢があり、
いま私はまったくの健常者並程度には納税をできている。
それは胎児時代から障害者だった私の誇り、プライドである。
でもプライドの持ち方は人それぞれだし、その時々だから、自由で良いと思う。
ただ、診断名は無数にある。古いものから行くと、
アレルギー性鼻炎、花粉症、うつ病、パニック障害、双極性障害Ⅱ型、発達障害、子宮内膜症、偏頭痛、慢性疲労症候群、線維筋痛症、愛着障害無秩序型、解離性障害、解離性同一性障害、複雑性PTSD。
でも、だからなんだというのだろう。
この世には大した悩みもなく大した障害もないのに、人を殴る人がいる。
不安や悪口や愚痴や悪態を垂れ流し続ける人がいる。
私は「障害者」だけど人は殴らない。議論はするが暴力はしない。
自分の人生の辛さを他人のせいにして不安をぶちまけない。
診断名は「メンタル病のキチガイ女」である。正真正銘、そうである。
見下されてバカにされても仕方がない存在だということはもうとっくに認めている。
生まれつきかトラウマのせいか知らないが、発達障害がある。
アスペ的であり、多動的であり、不注意である。
でもそれを自覚しているから、間違ったときは自分で責任を取っている。
謝ったり、挽回したり、信頼を取り戻す努力をする。
でも常識的に生き、多くの友を得て、社会の中でチームで仕事をしている。
カミングアウトする前も、した後も、友人も会社の人の反応も、
全然変わらなかった。びっくりするほど。「へー大変だったね」。それだけ。
障害者だから友達ができない、社会で生きられない、それは嘘だ。
先日、禅宗の高名な和尚さんと対話していて思った。
本当にディスられるべきは、「○○病」ではなくて、
自分の不快感を外にぶつけても平気でいる人
ではないのだろうか。
メンタル疾患の診断を受けた人全員が「メンタル弱いキチガイ」ではなく、
自分のイライラをぶつけずにはいられない人の犠牲になったからこそ、
精神疾患が引き起こされてしまったのではないか。特にうつ病。
うつ病と発達障害は、社会的差別に遭いやすい。
でも待って欲しい。
毒を撒き散らす人は許されて、毒を吸って病気になった人が差別される。
そして毒を吸った人が自責の念にかられ、自分を虐待してしまう。
おかしくないか?
私はこの点を強く主張したい。
診断名と、その人が悪人であり社会的に制裁を受けるべき自己中かは、別問題だ。
たまに聞きかじりの知識で情報発信している人が
「人格障害や双極性障害はメンヘラであり、近づいたら刺される」
などと無責任なことを言っている。それは違う。
もともと他人に毒を撒き散らして自分だけ助かろうとする弱い個体が、
たまたま精神障害を得て、より激しく毒を撒き散らしていて、それが目立つだけ。
当事者じゃない研究者が目立つ人たちを集めて研究しただけ。
https://realptg.com/2020/05/02/reasonofabuses/
発達障害者でも良い人はたくさんいる。その記憶力と発想力は社会的財産だ。
双極性障害者はトラウマ由来の人が多いので、とてもクリエイティブだ。
うつ病のひとは気遣い上手で努力家で仕事が丁寧で、大変信頼できる。
HSPは世界を「美しく住みやすい環境に」するためのセンサーを持っている。
愛着障害者は愛の不在ゆえに異常なほど努力ができ、経済を回している。
解離性障害者は強いメタ認知で客観性が必要な学問やビジネスや芸術で活躍する。
私は生涯をかけて、この「見えない病」と闘う人を応援したいと思っている。
これは子供の頃からずっと信念として大事に育ててきた私の「生きる意味」である。
だから同じ当事者であっても、大切な人を傷つけて平気な「毒人間」には容赦しない。
それは甘えでしかなく、自分次第で絶対に改善できるからだ。
改善できないという言い訳もまた、甘えである。
うつ病を甘えの口実に使う毒人間は、真面目にうつ病と闘う人に失礼である。
アスペルガーを隠蓑に自己愛を爆発させて、無視や暴力をふるう毒人間は、
社会に適応し優しい家族を作ろうと自己変革を絶やさないアスペルガーに失礼である。
愛着障害だから、アダルトチルドレンだから、と子供に八つ当たりする親は毒親である。
アダルトチルドレンを夫婦で乗り越えて新しい家族を作る当事者に失礼である。
その意味で私は「自力本願」であって禅宗やアドラーに近く、
カトリックや浄土真宗などの「他力本願」からは遠いかもしれない。
私的には、「他力本願」とは、内省をやり尽くした人が最後に至る境地だと思う。
自責の念で死を考えるまで追い詰められたメンタル当事者は「他力本願」でいい。
欲の強さを自覚している人間は「自力本願」でなければダメになる。
私の場合で言えば、生まれつきの神経過敏や発達障害などは制御が難しい。
だとしても、
不安障害(パニック障害)や、
複雑性PTSDで色んな小さなことでフラッシュバックが起きて心身が凍りつくこと、
理想のイメージに逃げ込んで現実逃避する(自己愛)ことさえ
自分で制御できるようになれば、
「メンタル障害」はただの個性ではないのか。
だから自制心を鍛えている。子供の頃からずっと。

長いこと、強く、優しい、優秀で、リーダシップがあって、共感力のある
ナウシカみたいな人でなければ存在することすら許されない
という、今思うと謎すぎる強迫的な自己愛イメージに逃げてきた。
それはずいぶんと自分を成長させてくれたし、経済的恩恵をくれたけれど、
身体が壊れてしまったら、そして大事な仲間を失ったら、何の意味もないのだ。
30代というのはきっと、万能感イメージと闘うという年齢なのだ。
孔子先生の時代から、ずっと変わっていない。
孔子は言う… 私は 15歳で学問に志した。 30歳で 自信がつき 自立できるようになった。 40歳で 心に惑いがなくなった。 50歳で 天の使命を自得(知り得る)ようになりました。 60歳では 耳にどんな話が聞こえても動揺したり 腹が立つことは なくなりました。 70歳になると 自分が行うすべての行動は 道徳の規範 きはん から 外れることはなくなった。
この節は 論語の中でも 最も有名です 「論語/島崎藤村」
15歳を志学 しがく 30歳を而立 じりつ 40歳を不惑 ふわく 50歳を知命 ちめい 60歳を耳順 じじゅん 70歳を従心 じゅうしん と呼ぶ。 又 孔子は 「子曰く 年四十にして悪 にく まるるときは それ終らんのみ」と 言っています。 人間 二十歳 三十歳はともかく 四十歳になると 分別を持たねばならないのに 四十歳になっても 人に怨まれているようでは もう前途の見込みは無いという意味。
出典 http://www8.plala.or.jp/kanjizai/M82a.html
「個性が強めの、でも話したら友達になれる人」というのが、
生まれつき何かの障害を持って生まれた人のゴールではないだろうか。
社会的成功はその先にある。
まずは迷惑をかけない、自分を病ませない、そのバランスをとるために
とにもかくにも自制心と内省が必要だと思うのだ。
孔子先生と生物学から学べることは、
自然界には一定数、常に、自分の体内の毒を撒き散らさずにはいられない個体がいる
ということではないか。
40を過ぎても内省や自制心に気づけず、殴ったり悪口をいったりする人今もいる。
そういう人は社会にとっては残念だがゴミである。
ただ、大いなる才能があるかもしれない。ただ、社会生活にとってはゴミである。
お一人で、自力で、才能を発揮していただけばいい。
幸せな家庭や企業での成功は諦め、晴耕雨読や職人や一人乗りの漁師になれば良い。
私が「メンタル弱い医療費かかる障害者」として生まれたように、
その人は「社会にとってはゴミ」として生まれてしまった。
それこそが生物多様性であり、それこそが遺伝子多様性のダイナミズムである。
弱点を治せれば最強だし、治せなくても、その才能を活かすも殺すも自分次第なのではないだろうか。
さて。ゴールデンウィークです。
<もう要らなくなった不快な戦いの記憶>
を取ってあげませんか。
辛い過去を思い出す必要はまったくありません。
もう、時空的には終わっているのだから。
ただ枕やクッションや大好きな家族を
ぎゅーっと抱きしめて、これが普通なんだと感じていただきたいです。
会社やPTAであくせく他人のご機嫌をとる生活は、
「普通」がちゃんとしていた上でなりたちます。
障害者の葛藤を終わらせてあげるのは、
自分自身か、プロのセラピストか、信頼し愛する「戦友」しかいない。
アマゾンでポチした商品は、その手助けにしかならない。
誰かがいつか助けてくれるというのは、資本主義が見せる幻想です。
「私は美しく強い魔闘家」のイメージを崩したくない気持ちは十分わかるけれど、
コロナが自己免疫疾患を利用して攻めてくることが分かった以上、
全ての人は腹側迷走神経の定常状態に戻るべきです。
交感神経が作り出した美しい幻を、これを読んでくださっている間だけ、
そっと横に脱ぎ去ってみませんか。
励みになるので押していただけたら嬉しいです(*´-`)
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