今回は、小児期トラウマとしてもPTSDとしても最も普遍的で分かりやすい、
3歳のときの臨死体験事故について書きます。
第一回はこちらから。

親を悲しませないため? 失った「痛覚」
私は長いこと、「父が毒親だ」と思ってきた。
父は病気だからとはいえ、私を使って「生き直し」をしているのは明白で、
こちらも白けるほどに「お前は優秀で完璧な人間だ」と自己愛を押し付けてきた。

素の性格はマイペースで他人の評価を気にしないタイプのため、
正直、親に押し付けられた「自己愛的人格」は肌に合わなかった。
だから、誇大自己妄想と現実のギャップにずっと苦しんできた。
ーーそう、うつになるほどに。

だが、現実というのはそんなに甘いものでは無かった。
私にとって父とは、「毒親育ちかも? という痕跡」であって、
額の傷と同じだったのだった。
本当にミステリー小説か、RPGかと、我ながら笑ってしまう。
ボスの後に出てくるラスボスは、いつも意表をついた相手なのだ。
最初に解放されたトラウマは、3歳の「事故」
「身体はトラウマを記憶する」……していた!
まさか、あの分厚い本のタイトルが、自分の身に起きているなんて……。
自分ではラスボスだと思っていた「事故」は、
じつは私というトラウマの複雑骨折みたいな人間にとっては「序の口」だった。
その時は数回のセッションの後、すぐに訪れた。
いつものようにボディースキャン瞑想をしながら「セルフ整体」をしていると、
身体が妙な姿勢で止まった。
何度身体を戻しても、意識を戻すとすぐ同じ姿勢になる。
足は前を向いて踏ん張ったまま、
腰からぐるりと左にねじ曲がり、
左手を下から引っ張られているような状態。
最初は解釈に戸惑ったが、
次第にこれが「身体が記憶したトラウマのポーズ」なのだと感じた。
きっと、この一瞬の姿勢が「闘争逃走反応」で、
その直後、私は惨めに無残に敗れ去った。
生きるか死ぬかをかけた闘いで。

「世界は私を殺そうとする」夢の意味
セッションが終わってから、ふと、また身体の内側から記憶が蘇る感覚があった。
ーー後ろから、下向きに、左手を強くひっぱられた?
ーーそれで、上半身が左に90度旋回して、そのまま頭から倒れた?
自分で、布団の上で何度も何度も試してみた。
目の前が血で染まる。意識が遠のき、わたしは私から分離し、
もはや死体にしか見えない私を斜め上から眺めていた。
砂場は血の海。でも何も聞こえない、感じない、痛みも、憎悪も。
犯人を罰している余裕なんて、あの頃の私にはなかったのだ。
ーーそうだ、間違いない。私は、「保育園の誰か」殺されかけていたーー。
ーー相手の顔を見てやりたかったが、失明を免れるためにそれ以上視線を送ることが出来なかった。
ーー犯人の憎さなんて微塵も感じなかった。ただ、保育園に行けなくなることだけは、それだけは阻止したくて、私は「事件」をこの世から葬り去った。
その事実を受け止めても、ほとんどなにも感じなかった。
パニック障害で「殺される!」と脳内がパンクする感じと、
事故のトラウマとは関係があるような、全然関係ないような、
モヤモヤとした気持ちになった。

他人事のような「親の日記」「保育園との連絡ノート」
それよりも気になったのは、親や先生の認識と、実際の怪我の程度のギャップだ。
私は3歳2ヶ月。まだ骨が柔らかかったとはいえ、
その陥没跡は、昨年撮ったMRI検査にしっかりと、生生しく映っている。
まだ、塞がっていない。
だが、受けた処置は「皮膚を7針縫っただけ」。
連絡ノートにはこうある。
「娘がご迷惑をおかけしてすみません。また、当日は親戚の用事で病院にも行けずすみません。『痛くない』と言っておりますので、明日からよろしくお願いします」
先生もこう返している。
「何事もなく済んで安心しています。先生もみていない中での事故だったので、以後気をつけます」
ーーえ?
ーーいやいやいや、頭蓋骨を5㎝骨折していて、「痛くない?」そんなバカな! 大したことない? こんなトラウマになって?
混乱した脳内を先生にぶつけると、
「もっとトラウマが抜けてくると、痛みを感じられるようになるかもしれない」という。
ーーいや、でも、私の記憶では、その後何度も古傷が痛み、血液恐怖症になるほど苦しんだ。
ーーじゃあなんで3歳になりたての子供が、そんな虚勢を張った?
私のイメージする3歳児と、痛みも責任追及も放棄し保育園に通い続けた私に、
大きすぎる隔たりを感じた。
わたしの本当の愛着基地を守るために
頼れない親と、外にいた「安全基地」
結論は自ずと明らかだった。
実の親に「痛い」と言える状況になかったのだ。
その当時、まだ何も思い出せていない私が立てた仮説は二つ。
①痛いと言えば、犯人探しが始まり、保育園を辞めさせられ、毒親に軟禁される
②痛いと言って親と保育園の先生を悲しませたくなかった
この両方が正しいとすれば、次の結論が導かれる。
③私は3歳までには解離を習得し、痛みを切り離し、事故後も平然と振る舞い続ける能力があった
④ということは、記憶のない「小児期トラウマ」のサバイバーである
⑤保育園の先生こそ、私の愛着対象であり、私の安全基地であり、親代わりだった
「先生と会うために」切り離した憎悪と痛覚、手に入れた感謝と奉仕
私が「事件」を「怪我」「痛くない」と言い張って守ったのは、
私にとっての心のお母さんだったのだ。
心のお母さんとの仲を邪魔する母親には、虚偽申告で騙してでも、
私は心の安全基地に毎日通い、心を成長させる必要性があったのだ。
次のセッションの時、私は久しぶりに腹の底から泣いた。嗚咽した。
そして胸のあたりに温かい塊を感じた。
「先生、私を育ててくれたのは、両親じゃないんです。保育園の先生と、友達と、友達の親なんです。彼らがいなかったら、わたしは、多分……」
その言葉が自然とこぼれ落ち、伝えきれなかった感謝の気持ちで身体が崩れ落ちた。
私を守ってくれたのは、遺伝子に刻まれた「非常に高い外向性」であることは明白だった。
乳児の私は、必要に迫られて、外部に愛着基地を求めた。
そして家では泰然と「鬼」と「死の恐怖」と同居した。
そこまでは分かった。
だが、自分の親に巨大な不信感を持っていながら、
記憶の中では「仲良し家族」を演じてきた。
記憶のない生まれてからの3年間、なにかもっと大きなことがあったーー?
身体の記憶、親の話、親の日記、連絡ノート……。
これらを見比べながら、一人名探偵コナン状態で、
私のトラウマ治療は「失われた時を求めて」リスタートを切った。
まとめ 知られざる身体の記憶「手続き記憶」
「手続き記憶」という無意識の身体記憶
『身体はトラウマを記憶する』というその言葉通り、
ヒトの記憶には、実は「手続き記憶」という無意識の記憶がある。
自転車に練習すると乗れるようになるのと同じで、
強烈な体験が身体に手続きとして記憶され、忘却されずにいるのだ。
これは10万年前のヒトを思い浮かべると想像がしやすくなる。
文字も紙も新聞も本も無い時代に、ヒトを含む動物たちは自然のなかで生きるために、
如何様にも改ざんできる、いわゆる「記憶」と、
忘れたら生死に関わる、危機管理マニュアルとしての「記憶」の、
二つの記憶を分けた。
そして前者を脳味噌が担い、後者を身体に刻み付けることを選択した。
現代の私の例で言えば、
・顔も見えなかった「友達のうちの誰か」に殺されかけたが、大人に頼れなかった記憶
→人間を信用しない、自己開示しない、背後に警戒する、痛覚を切り離す、人を憎まず
というのは、「手続き記憶論」で言えばごくごく自然な流れとなる。
その犯人が見つかったり、安心が確保される時間を持つまでは、
この身体に刻まれたトラウマという名の記憶は、機能し続ける。
言い方を変えると、身体に正確に刻まれることで、ずっと私を守っていたのだ。
トラウマは「守護霊」みたいなもの?
そう考えると、トラウマというのは非常に健気な奴なのである。
脳味噌は不都合な記憶をまるごとぶっ飛ばす「解離性健忘」という荒技を使う。
私ももちろん、周りでも結構これを乱用している人が多い。
でもトラウマ記憶は、「そうは言ってもさ、危ないんだぜ。気を付けろよ」と
いつもどこかでストップをかけてくれている。
慢性疲労症候群や起立性障害、
ひいては「身体的問題での引きこもり」などは典型例だと感じる。
「お前さ、部屋の外は危ないんだから、出るなよな」と
いまだ安全確認をしていない身体に刻まれたトラウマ記憶は、危険を回避しようと先回りしてセコムしているのだ。
宗教やスピリチュアル的に言えば、「守護霊」のようなものかも知れない。
「祈り」とは何だったのか?
トラウマセラピーは、先生方はお怒りになるかも知れないが、
アーユルヴェーダや中医学、リフレクソロジー、はてはアマゾンのシャーマンなどに近い。
・身体志向(←→認知行動療法、傾聴カウンセリングなどの対話療法)
・マインドフルネス(←→飲むだけ薬物療法)
・受容と許し(←→「治す」という近代的価値基準)
こう考えると、古来日本だけでなく世界中の人々が、
見えない神様に熱心に祈り、そして「御祓」などの身体的儀式をしていたのも
自然災害や家族の死などの痛みを緩和するセラピーだったのでは無いかと思う。
次回からはより深く暗い世界へと足を踏み入れていく。
✨励みになるので押していただけたら嬉しいです(*´-`)
✨ 本ブログの参考文献&お役立ちグッズ紹介はコチラ✨
✨ 私もカウンセラー登録してます!長引く病気・症状に。知識×実体験で寄り添います



コメント