前回、トラウマの入り口が開けたことで、その後の私は急速に身体感覚を取り戻していきました。

それはつまり、解離や自己愛という魔法が解けていくということ。
トラウマの治療と並行して、裏技を使わない「まっとうな生き方」を、
新しく見つけていかなければなりません。
『小児期トラウマのもたらす病』を克服するために必要な努力
『小児期トラウマのもたらす病』の最大の問題は、
その人がどんなオッサンオバサンになったところで、
人生がほぼずっとトラウマ体質だったため、
小児期トラウマという病気の状態しか知らない、ということにあります。
そして実は、モラハラやDVや虐待の加害者には、それなりの割合でACEの人がいると思っています。
小児期トラウマを治そうとすると、予想だにしない自分と出会う恐怖と向き合うことになります。
ほとんどの場合は、それは良い方向にいくだけなので何の問題もないのですが、
いままで何十年もやってきた性格や考え方や身体の使い方を変えるのは誰だって抵抗があります。
私はちょうどコロナショックと時期が被り、ものすごい不安と隣り合わせでした。
「自分を変えたいけれど、変えるのは怖い」と思う方へ、
その当時の実録とともに、どうやったら冷静に働きながら自分を変えられるか、ご参考になれば幸いです。
解放されていく途中に起きた、大きな混乱
――こんな3歳児、マジかよ!
信頼できる先生が付いていてくださったから不安は無かったものの、
うっすらと多重人格傾向や、考えないようにしていた親の残虐性に気付き始めた頃。
私はもはや何を信じたら良いか分からなくなり、ひたすら本や科学論文に救いを求めた。
そして丹念に丹念に、「出来ること」と「出来ないこと」、「先天的」「後天的」の境目をつけていった。
リアリストはっち、ここがまさに人生の正念場であった。
この作業の過程を、今回と次回の二回に分けて紹介していこうと思う。
3月前半の日記に残っているので、リアルな戸惑いを表すため、引用する。
前身のはてなブログを開設したのが3月21日。その少し前のことだ。
身体はトラウマを記憶する~刻まれた虐待のあと~(3月11日)
以下は3回目のセッションの後に書いていた日記。
トラウマのフラッシュバック(恐怖感、身体が凍り付いていく)と、
冷静にロジカルに変わりたい気持ちとの間で揺れ動いていた。
事故や虐待の影響で失ったと思われる能力
おでこの傷について 3.11
まだうずいている。無性に脳科学が調べたくなって、夢中で調べているところ。ただ、調べたいのに恐怖で体が強張る。息が苦しくなる。
・ワーキングメモリ(短期記憶)=くだらない親の折檻や夫婦喧嘩を覚えていたくないため
・恐怖心、痛み=事故の恐怖を大人に「無かったこと」にされ、自分自身もその環境に適応した
・自尊心=暴力は安全安心のうちに肯定され、死ぬ思いをした被害者が罪を背負うことを学習した
代わりに背負った人格
・自己愛性パーソナリティ=誰も助けてくれない、誰も愛してくれない、仕方なく自己愛で埋めた
・好かれる人格でなければ生きている資格が無い=事故の影響、殺されかけた子供独特の心理
・気配に敏感すぎる=交感神経優位スイッチが入りっぱなし。生まれた時からなのでオフの仕方が分からない
・否定されると落ち込む=否定というほどではないのに、人格全体が否定されたような気がしてしまう
・なんでもネガティブにとらえる=後天的。表情や言動を深読みする傾向
解離・自己愛・サイコパスという虐待者の素顔
無視、ネグレクト、監禁、モラハラ……真実と向き合う時
セッションの間、私は誰に許しを請い、やめてと叫んだのか分からない。
多分、母の情け容赦一切無しの虐待に向かっていたと思う。
母は機嫌がいいときは、おままごとをするように私を大切にした。
でも、興味が無くなると無視して放置した。
母がよく「お前は泣き止まなくて、放っておくと何時間でも泣いていた」と困ったように言ってくる。大人になった今も。
自分が悪いとは少しも思っていない。それは子供が何を欲しているか、彼女には分からなかっただけなのだが。
虐待の時も慈悲の心とか、情け容赦とか、子供だからとか、そういう妥協は一切無かった。
むしろ自分のモノだからといくらでもぞんざいに扱った。
ただ、役割として母親を演じるのはとても好きだったと見えて、家事はきちんとしてくれた。
お父さんへの態度と、私への態度が違いすぎて、幼少期から人間不信になった。
「美人で優しくドジなお母さん」のサイコパス性
手を上げることも多かったが、お尻をたたくだけでアザを作るような真似はしなかった。
絶対に「自分は良い人」というイメージを崩さない戦略が、巧妙過ぎて女性不信になった。
あれだけ何時間も折檻しておいて、父が帰ってくると「この子、また片づけなかったのよ!」と悪者にされ、父に「私は良い妻」アピールを全開にする。
良い子でないと母に八つ裂きにされるし、父も良い子しか好きじゃないのだと思い込まされた。
この時期『サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅』を愛読していた。
この言葉も暴力も使わずに支配する感じが、サイコパスとしか言いようがない。
発達障害のピュアさは無いし、
自己愛性人格障害や境界性人格障害のような定型的な動き方もしない。
あくまで証拠を残さない自分本位。
結果として、常に絶対に他人に面倒ごとや責任を負わせる。
あまりにプロの技過ぎて気づかなかった。
真犯人への対処法に悩む
子どもは私のモノ、私の自由にする権利がある?
・父が死んでもなお続く「娘=不安とヒステリーの捌け口」認定
・不安なことがあると時間と場所の見境なくぶつけてきて、共感や傾聴や理解や解決を求める
先月もパニックを起こし、娘の予定をキャンセルさせてまでヒステリー電話に付き合わせた
・自分で自分の未来を決めることが出来ない=「でも、だって」しか言わない
・その割に、娘の生活を支配し干渉しようとして、親ヅラしたがる
・母にヒステリーを叩きつけられる度、人間への諦観が大きくなり、どうせ人間は嫌いだと思う
・自他の境界がなく、モノのように接してくる母の暴走を止める手立てはあるか?
・そもそも、私は「他人のヒステリーの捌け口」でなくて良いという確証が欲しい
・相手のネガティブ感情を受け止めてあげすぎるよう調教されてきてしまった
サイコパス親への怯え、毒親と立ち向かう勇気
母親のことは、ずっと「ドジで優しい献身的な人」だと思ってきた。
逆に言えば、それ以外の不都合な記憶は、記憶から抹消していた(解離性健忘)。
その記憶はあまりに矛盾していて、記憶するに堪えられなかったのかもしれない。
その矛盾が3月上旬に一気に襲ってきた。
むき出しの「ずる賢く、あざとく、責任転嫁が得意で、他罰的で、共感も良心もゼロ」という
サイコパスという言葉以外思いつかないその本性に気づいてしまった。
このトラウマ記憶の対応については別で書くが、この事実を受容するには時間がかかった。
もともと「殺される」というトラウマ記憶と常に同伴してきた人生だった。
そして信じていたはずの親は、自己愛性人格障害どころか、サイコパスだった――。
殺そうとしていたのは友達じゃなかったんじゃないか、
親だったんじゃないか、
そう確信が深まるほどに、LINEや着信に怯え、親から連絡が来ただけで虚脱し、
半日泣きながら寝たきりになった日もあった。
父は自己愛性パーソナリティ障害、母はサイコパス、
祖父母や親戚も境界性パーソナリティやらサイコパスがずらりだし、そもそも疎遠……。
変わりたい、でもどう変わったら楽になれるのかも分からず混乱していた。
私が望みを託したのは、やはり科学の力しかなかった。
この検査に救っていただいた、と本当に心から感謝している。
次回は、どう自己分析し、安心安全を確保したかについて。
コロナ対策「呼吸を取り戻せ」!【実録・小児期トラウマ治療6】
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