「治らない病」克服日記

20歳から問題意識は変わっていなかった

「治らない病」克服日記
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プライム
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遺伝子検査との大き過ぎる矛盾ーーなれない優等生を演じ続けた葛藤

私の遺伝子的本性は、

ダンスミュージックで歌って踊ってダチと連むような

マイルドヤンキーに好奇心がくっついたような人間だと思われます。

トラウマがなければ、今頃、地域のほどほどの高校に行って、子どももたくさんいたんだと思います。

あくまでも遺伝子検査の結果と、

一番キャラクターとして楽だった小学生時代を思い返すと、です。

学生時代はそれで押し切れた。

少しずつ自分を失い、分裂を繰り返しながら、

それでも息ができる場所があって、羽を伸ばせるところがあった。

そんな私が近代理性主義と資本主義に魂を売り払う前後の日記があります。

20歳の時の個人的な日記なのでかなり若造な感じがありますが、

この辺りが分水嶺だったように思います。

ここから先は、愛と自分らしい世界から魂を売って、

この世を知り尽くしてやろう、とことんまで、という、

PTSDルートに入っていたと思います。

いわゆる社会人としてはそれなりに実績も出せました。

けれど、自分を失っていき、

強い自分でいると周りの優等生に嫌われてしまうから、か弱くなろうとして

みんなに望まれる人間でいようと演じ続けた結果、

最終的には鬱休職し、寝たきりになりました。

こんなブログ書いてる人間が、

いままさに取り戻そうとしている20歳前後の当時どうだったのか?

というシリーズをいくつかやってみようと思います。

あくまでも当事者ブログですので。

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以下、20歳の今日、書いていた日記

タイトル:「社会のために」という逃げ場所

人の人生に目的なんて無い。
でも80年も生きるのに、
何の意味づけも無かったらノイローゼになってしまう。

だから人は、自分の人生に「意味」を求める。 

そこで、急に、ぽっと 
「社会」という概念が登場する。 
それはまるでにわか雨のように。 

社会という概念を自在に操作すれば、 
自分とう存在を手軽に確認することが出来る。 
「位置づける」ことができる。 

そして、 
「社会のために何かがしたい」 
という、 
あいまいで優しい逃げ場所が生まれる。 

そう、社会のためにならないことなんてあるのでしょうか? 
この人間と動物と環境がひしめき合ったこの世の中で 
「相互作用」を一切及ぼさない行為があるでしょうか? 

物質レベルで考えれば、 
人間が何かコトをすれば、相手体の中に何かしらのホルモンを誘発することは間違いなし。 

長期的に見て、社会のためってなんだ? 
ヒトラーは、あの時代の「社会のため」ではあったのだろう。 
彼の評価は「事後評価」 

「社会のため」に甘えてはならぬ。 

「社会のため」が自己目的化してはならぬ。 

だからといって 
「自分のため」を許容してはならぬ。 

くだらない言説をはいてマスコミに取り上げてもらおうとする 
志の低い学者やジャーナリストには 
ほとほとうんざりいたしますけれども、 
それでも自分にはもっともっともっと 
うんざりするのであります。 

「しゃかいのため」 
「だれかのため」 
結局は、 
自己存在を確信するための儀礼。 

そして 
仲間、同志というやさしい関係を確認するための 
やさしい儀礼。 

「あいつ本当に頭悪い」 
という、自称エリート君が良く口にする言葉も 
それもまた儀礼。 

「おれは結構頭いいぜ、まあ君もそこそこ認めてあげられる範囲かな。ここは一つ、頭の悪い彼という【共通の敵】を創り上げることで、連帯感を醸成してみないかい?」 

そういう、自称エリートという階層への 
帰属意識を醸成するための儀礼。 

本来なら、別に彼が頭がよかろうと悪かろうと、 
自分の頭の良さはまったく傷つかないはずです。 
敢えて「頭悪いよ」といわねばならない、 
その張り詰めた、切迫した情況に興味があります。 

プライドを保持する手段。 
それはこの殺伐として茫洋とした「社会」というもののなかで 
自己存在を獲得するための手段。 

そして、 
あらゆる社会で延々と発信されてきた 
「果てしない成長へ駆り立てるメッセージ」 
の光と影。 
そう、自称エリートたちは 
この意図的なメッセージに、すっかり洗脳されつくしているのです。 

別に良いよ、 
勝手な他者評価に振り回されるのはもうたくさんだ。 

そんな風に「降りる」ことも侭ならない。 

あたしたちは
延々と
自己存在獲得と
見栄とプライドと「成長」の名のもとに
砂漠の上でリレーを一生続ける

最後までゴールはなく 
のどは乾き 
体はやつれ 
皮膚はごわごわになり 
足の皮はむけ 
周りの景色をみることもなく 

さて、本物の「エリート」なら 
成熟社会とか 
市民社会とか 
そういうステキな言葉を繰り出してくるのでしょうか。 

だから思想をもった先人たちは 
死んだり 
解脱したり 
かしらおろしたり 
したんだろうか。 

たった一人の世界。 
音も無い静かな恐怖。 
それこそ自分の限界に挑むということではないだろうか? 

きらびやかな世界。 
あくなき「金持ち」への欲求。 
それは俗世のものでしかない。 

かといって私は宗教家でもなんでもありません。
ただ東京砂漠に20年も漂っているアオミドロです。

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若者が自己愛に堕ちる理由の、20歳当時の考察

この違和感は何だろう、 
すべてが自分のせいであるという雰囲気。 

モテないのも 
就職試験に受からないのも 
自分に障害があるのも 
勉強が出来ないのも 
オシャレじゃないのも 

おじいさんたちは、それを「自意識過剰」とか 
「軽薄な万能観」と呼ぶが 

若者擁護の立場から一言言えば、 
「万能を強要されている」のだ。 

怒りは自分に向けられる。 
頼るべき他人はいない。 
他人は自分を映す貴重な鏡であって 
それを叩き割ることは許されない。 

就職試験の面接を受けていて、 
ミッシェル・フーコーの「知への意思」を思い出した。 
性がタブーとして顕在化して 
人々が毎週日曜の礼拝で自らの牧師に 
「罪」を告白しなければならなくなればなるほど 
性に関する言説は増大し、性に対する知が充実していく 
私の解釈ではこんな感じでした。 

私達は「出来る大人」にどれだけ近いかを 
告白しなければならず、 
「出来ない人間」であることを悔い改めることを強要される。 
つまり、万能でないことは罪であり 
私達は日々告白によって自分の万能さを 
形だけでも、他者に提示しなければならない。 

でも、身内を攻撃せず、 
万能ではないのに万能を強要されねばならない 
このストレス社会において 
私達はどこへ怒りをぶつければいいのか。 
自分にいくらぶつけたところで 
万能でない自分を嘆くしかない。 

TVタックルを見ていると、 
保守陣営は割りに感情的である。 
私には、個人の主義主張は当然のことだが、 
それの裏に、怒りやムカつきの感情があるように感じられる。 
TVタックルでも、声がワナワナ震えて 
「そんなこといったってねえ、あんたの国だって・・」 
と絶叫するコメンテーター続出。 
これは普通に考えても、理性的な理論だけの議論ではない。 

高度消費社会と個人主義、自己責任。 
優勝劣敗の自由競争と、帰着先の見つからない怒り・不安。 
どこへぶつけたらいいのでしょう。 
もしかしたら、「政治」という概念自体古いのかもしれませんね。 
もしかしたら、合意とか議論とかそういうものから疑わなければならなくなってるのかもしれませんね。 
丁度ハーバーマスを今更勉強しているところですが、 
違和感が拭い切れないんです。 

私は今、何となくですが
やはり貨幣システムと若者論という切り口が
割と面白いんじゃないかなと思っているわけです。
意味不明なこと書いてごめんなさい。
あくまで頭の中の整理です。

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本質的には変わっていない

まだ言葉が未熟ですが、どう考えてもテーマは

自己愛

ですね。私はよほど自己愛が許せないようです。

もう一つ。

ここから表現系が変わっていきますし、この当時は詩的な世界に救いを求めていましたが、

私はどうもブログや日記に救いを求め、

外では明るく元気な本来の自分でいることでバランスを取っていたようです。

20歳当時は普通に普通の女子大生の格好をして、

普通に友達がいて普通にバイトをしている普通の子でした。

ちょっと多動気味でしたけど……。

それを考えると、やっぱり自分は18くらいの時に決定的なトラウマがあり、

明るい自分とダークサイド鬱パーソナリティに分かれていった気がします。

過去の日記を追っていくと、どこがターニングポイントだったかは分かります。

手紙を書くワークも良いですが、

日記や手帳、写真を掘り起こして見てみるのもおすすめです。

何が自分の「治らない病」が自然治癒するのを阻害しているのか?

つまり、何が自分の中の真因なのか?

それを探す手掛かりになりますよ^ ^

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