スポンサーリンク
「治らない病」克服日記

働き方、自己啓発、自分軸、資本主義についての考察

「治らない病」克服日記
この記事は約19分で読めます。
スポンサーリンク

今日は自己啓発的なことを書いてみようと思います。

約3年間にわたり、専門的な知識を持つ治療者(医師やカウンセラー)と対話していく中で、

病気が治りやすい人とはどういう人間なのか、

病気を治し、かつ人間的にも周りに迷惑をかけず、自立して生きていくにはどうしたらいいかを考え続けてきました。

自分さえよければ良いと言う思考で病気を治しても、生き残った自分がただ迷惑でお荷物の存在なのであるなら、私個人としてはせっかく命を長らえているのに、もったいないと思うからです。

ということで、「どういう風な患者がいちばん幸せなのか」の問いを出発点として、現代人がどう働き、どう生きるべきなのかについて考えてみました。

以下は学問をベースとして独自の解釈を述べます。表現が断定的なのは文体ですので、あくまでも個人の主観です。

より感情的に書いた過去記事も同様の内容ですのでお読みください。

坂口安吾『堕落論』を2020年に私的再解釈する|はちさんた https://realptg.com/|note
#読書感想文 #堕落論 #坂口安吾 #社会時評 やっぱり丸くなりきれない。坂口安吾ぶらせてください。 日本という「回避性愛着スタイルの集合体」、 その結果としての「自己愛が暴走した無責任社会」に対して 私が感じている違和感の根本だけを、歴史学と社会学を合わせて、 エッセイ風に書きます。 2020年のはちさんた風「堕落...
スポンサーリンク
スポンサーリンク

社会のせいvs自分のせい

さて、本論に入る前に「社会のせいか」「自分のせいか」論争をクリアにする必要があります。

と言うのも、社会問題や個人のウェルネスについて考える文系学問であっても、

経済学や社会学のように「統計的に個人を処理する」学問もあれば、パーソナリティ心理学のように「個々人はすべて個性的で特殊」と考える学問もあります。

そんなバラバラな個人観をまとめようとしているのが宗教や倫理だと思えば大体大丈夫だと思います。

よって、経済学や社会学を背景にしている与党系政治家などは「日本人は~若者は~」と十把一絡げに話しますし、

宗教系の政党などは個人の個性をやたらと強調したりする。

それは同じ人間社会をどちらから光を当てているかの違いに過ぎません。

大事なのは、どちらの視点にも平等に目配りをしつつ、バランスを取ることかと存じます。よって本稿では様々な学問の様々な視点を導入して行きます。

スポンサーリンク

私の考える個性と社会

もともと生物学を志して、大学では残念ながら社会学を学んだ立場から申しますと、

人間は自由自在に個性を出したり消したり出来る生き物だ!

というのが一応の答えです。

そもそもは飢饉や洪水などのピンチの時に、みんな同じ行動をすると種が絶滅するため、とっさのときにバラバラに逃げ延びるためにDNAに個性が刻まれたのではないかと考えています。

個々人のDNAタイプに違いが出れば出るほど、型の遠い異性に惹かれますから、ロマンスが燃え上がります。

そうして違いを出す-子孫を繁栄させるというループをうまく回してきたのではないかと考えています。

もちろんこれは仮説であって立証の仕様がありませんが。

ですが、平常時からやたらと独自性を全面に出されたら、集団生活が営めません。

平和な時には個性は邪魔であり、生産活動と家庭円満こそが一番大切です。

つまりは社会的役割をきちんとまっとうする個体こそが偉いわけです。

近代以前は、村のルールを守る自己中フリーライダーは村独自に粛清することが当たり前に行われていました。

それも世界中で、です。

日本史においてもド平民がやたらと個性的になったのは、プチ氷河期だった戦国時代と、外国人が押し寄せた幕末明治以降くらいです。

スポンサーリンク

資本主義と「個性」

ようやく自己啓発に入ります。前置きが長くてすみません。

資本主義社会というのは非常に二枚舌です。つまり、

生産者・労働者には「個性なんて不要!言われたことを言われた通り黙って奴隷として働け!」

と言いながら、同じ人間がオフタイムには消費者となり、今度は

「お客様は神様です。お客様のオンリーワンの個性を輝かせるために何でもさせていただきます」とくる。

こうして人々は資本主義の「鉄の檻」に絡め取られ、自力で脱出するとこは叶わないほどに洗脳され尽くすわけです。

飴だけでも鞭だけでも人は満足しませんから、こういう飴と鞭があってこそ洗脳は完成します。

ただし、洗脳が悪いなんてまったく思いません。

洗脳されていた方がマジョリティですから、いちいち考えたり悩んだりしなくて済むので楽チンです。

そもそも人間には群れることで放出される快楽物質オキシトシンがありますので、群れていた方が脳が楽で快楽ホルモンもどんどん出るわけです。

じゃあなぜ世界は個性を煽ってくるのか?

答えはもう簡単です。

私たちがそもそも個性的だから?

違います。

そもそも個性を隠して生きた方が楽に生きられるにも関わらず、モノやサービスを売って他人のお財布を潤わせるために個性を直視させられている、

という方が現実に近いと思います。

個性なんて考えずに集団にフィットしていた方が圧倒的に楽なのに、人間には誰しもマウントを取りたい欲求があり、そこを刺激されて人間関係をこじらせます。

すべての人間に平等に訪れる試練が、社会で仲間外れにされないようにしつつ、ポジションを見つけるということなのかもしれません。

スポンサーリンク

職業選択については過剰な「没個性化」

と、個性を全否定してみた側から話をひっくり返しますが、個性が奪われすぎたジャンルがあると感じています。

それは学歴社会と職業選択です。

みんながみんな「努力して東大に行く」って必要、あるわけないですよね。生物は多様だから繁栄するのであって、この世が東大志望者だけになったらホモサピエンスは絶滅するかもしれません。

それと同様に、「流行の会社に入って、自分好みの仕事をせねばならない」という圧がものすごいわけですが、これも冷静に考えるとおかしいですね。

そもそも、寝ることと食べることと恋愛(推し活)以上に楽しいことなんてあるはずないんです。

各々の好奇心の方向や、内向性外向性の違いがありますから、営業系向きか、職人向きか、くらいの程度の差はあるでしょう。

けれど、いわゆる障害として認定されないレベルの個性であれば、努力でどうにもならないほどの差ではない。だから派手で収入が高くて好きな仕事だけ出来る人は確率論的にかなり少ないのです。

要するに母数が圧倒的に多いのに、この世にマウントが取れて楽できて金が儲かる仕事は少なすぎるということです。そちらの欲張り戦略にかけて頑張っても、報われない可能性が高いと思います。

かつての大企業や公務員の管理職は、その多くが上述の理想的なポジションでした。ドサクサで接待を受けたりして、取引先に若い愛人を用意してもらうような美味しい思いもたくさん出来たオジサンたちがいたことは事実です。

そういう年長者を見て、若者は美味しいアガリポジションのために最初の20年を耐え抜けたのです。

世間一般で言われているように、経済が成長局面だったことも大きいです。私はこれらのことが年功序列システムの労働者側のメリットだったと思います。

でもそれは戦争で上の世代が少なく、下の世代が多かったある特定の年代にだけあった幻でした。私たちくらいの世代が同じようにしようとしても、電通さんのように世間に厳しい目を向けられるかもしれない。

人口ピラミッドの上にいなければ、私のようにアラフォーでも一番下で入社以来ずっと電話番とコピー取りになる。

であれば、無理に無理を重ねて向いていないけれど世間体の良いサラリーマンにこだわる理由は、もうないのではないでしょうか。

そんなオイシイ仕事というのは既得権者とその二世の方々の縁故就職で埋まっておりますから、平民に生まれたら楽しく生きつつ世間体も……というのは無理なんですね。

(話は脱線しますが、既得権者が自分の家族だけで国の富を独占しようとするから、定期的に民衆の不満を吸収する形で戦争が起きるんだと思います)

そもそも私たちはそんなにポジティブな方向性では個性的でありません。

長所が違うというより、苦手なことがそれぞれ違います。

私は最近四柱推命などの古典占いを勉強しているのですが、かなり古い時代から「適職」という概念はあったのですよね。

よって、発達障害の人が精神を病んでまで親の世間体のために事務職にこだわるのは得策ではないし、逆に定型発達の人が高給につられて細かい暗記仕事を何十年も続けることも苦痛になったりします。

高度成長期ほど会社に余裕がありませんから、あまり不得意が多いと昇進させてもらえないことも増えています。

しかし、残念ながら国民皆兵を下敷きにして成長した資本主義システムは、みんながみんな兵隊でないと困るというシステムです。

良いとか悪いとかではなく、資本主義とは国民皆兵がベースにあります。障害の有無とか関係なく、国民はすべて兵隊というのが国民皆兵です。

だから朝八時から夜六時まで会社や学校にいて管理できないと困ります。

みんなが好き放題自由に田畑で働かれては困るわけで、財閥系資本家にとって「優秀で忠実な奴隷」が増えないと困るんです。

困るのは、資本主義を動かしている資本家達が、です。

ですからド平民たちに求められることは以下の大変矛盾したメッセージです。

①君たちには無限の可能性がある!だから良い学校に行き学問を納め、資本家が運営する巨大な企業に入って夜も昼もなく長時間働くのだ!君たちの奴隷根性を常に試してやる。忠実な奴隷には出世を約束してやろう。良い会社に入って出世すれば、マウントが取れて君は誇らしく生きられようぞ。自分に向く仕事が分からないとな?心配ご無用、日本型雇用は無限定のメンバーシップ型だから自由自在に異動するし、OJTだから資格も不要!必要なのは忠誠心と健康と時間のみ!

②お客様は世界に一つだけの花。一人一人違う種を持つ。その花を咲かせるためだけに企業は存在するのです!どんな理不尽なクレームやヒステリーにもお金を払ってくれれば耐えましょう。さあ、幼児に帰って働いて溜まったストレスを消費で晴らしてください!お仕事にお困りでしたら有料カウンセリングで理想の人生、理想の恋人を叶えます!美女、イケメン、美食、夢、なんでもご提供いたします!消費するために明日も頑張って働きましょう!

……とっても嫌味と皮肉たっぷりに書いてみました。

つまり、労働によって受けたストレスによるストレス消費でカネが足りなくなり、もっと働かねばならなくなるが、ますますストレス消費が加速して貧乏なような気持ちになる……という悪循環に放り込まれていると私は思っております。

これ、結局、ド平民のところにお金も時間も残らないよう上手く出来ているんですね。

いわゆるストレスジャンキーの状態にさせられているのが現代人です。その負のループから抜け出さない限り、クスリで得た苦しみを紛らわせるためにまたクスリが欲しくなってしまう無限地獄からは抜けられないのではと思います。

スポンサーリンク

日本型雇用の特異性について少々

なお、日本型雇用の特異性について少しだけ触れておきます。本筋ではないため詳細は専門書に譲ります。

日本は海外より更に国民皆兵システムを踏襲した官僚制をベースに企業が出来ていますから、より会社の雇用関係が良くも悪くも家族システムっぽく濃密になっています。

特に新卒一括採用&終身雇用制度は資本家にとって美味しいことづくし。若い労働者が安い賃金で世界中に転勤し、非採算部門からは自由自在に人材を異動させられますからね。

ただし、これは労働者側にも能力が低くてもクビになりづらいとか、会社のメンバーが「仲間」として緩衝材の機能をするというメリットがあるため、2022年時点の日本では「個性に基づくキャリアプランニング」は実質的にあまり意味がありません。

※独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)所長の濱口桂一郎氏は、欧米のジョブ型雇用と区別して「メンバーシップ型雇用」と名付けて、日本型雇用システムの長短を論じています。

日本企業が無限定雇用システムをやめるインセンティブが無いため、近々何かが変わるとは思えません。

無限定雇用は悪意を持った言い方をすれば丁稚奉公や奴隷システムに近い。フーコーの言い方からすればパノプティコン的、です。

また、シンギュラリティで事務職等の現場職がなくなっていくことを考えると、SE以外の仕事に於ける勤務キャリアって労働者本人が思うほど確たるものではなく、時代と企業の流れ次第で吹いたら消えるようなものなのですよね。

個人的には、ITスキルや、システム化できない超ニッチな専門スキルを磨く方が、総花的に出世部署を回るより死ぬまで食うに困らないと思っている派です。

ただやっぱり「あなたには無限の可能性と才能が…以下略」と煽てらると人間は財布の紐が緩むため、竹中平蔵さん以降人材サービス業は成長しています。

とはいえ、日本型雇用システムが完全に瓦解するのはまだ先のことになりそうで、それまでは「個性より能力よりキャリアより、貢献で評価」の丁稚的雇用制度は続くと見ています。

スポンサーリンク

敵を知り、己を知れば百戦危うからず

私はこの仕組みは仕組みで上手くできていますから、身体を壊さない程度にこの「人工波のプール」で波乗り体験を楽しむのも悪くないと思っています。

欅坂46は「群れるなんてダセェ」と言っていましたが、群れるのは楽です。コスパ最強です。

先程はサラリーマンを無理してしない方が良いとは言いましたが、出来ることならマジョリティこ生き方をする方がお得です。

良い学校にだって病まない限りは行っておいた方がお得が多いのでオススメです。

普通は楽でコスパが良いけれどダサい。個性を出して生きるのはコスパが悪いけれどイケてる。この二択ってことですね。

だから社会を変えなきゃとか、こんなのおかしいとか、そんなことを言いたいのではありません。

しかし、ある程度知性の高い人(学歴は無関係)の中に、この世界のメッセージの矛盾にガチンコで悩んでしまう人が出てきます。

そう、鬱になるほどに。

そういう方の多くが、なぜか「自分探し資本主義」にまた入っていってメンターやコンサルタントに大金払うのがなんだか奇妙で、こういうセルフ脱洗脳の記事を無料で書いてみた次第です。

結局、自分って大したことはない。資本主義も万能ではない。すべては矛盾を抱えながら、お金を媒介にエネルギーがグルグル回っている。

まるで酸素のようにーーそのことが見えると、結構色んな悩みから解放されることは確かです。

スポンサーリンク

ニーチェの問い「実はみんな洗脳から解かれたくはない」

ここでお馴染みのニーチェを持ち出してみます。

私の解釈では、ニーチェも似たようなことを言いたかったはずです。

ただ、彼は「ツァラトゥストラかく語りき」で、「おいお前ら目を覚ませよ!このままで良いのか?」と問います。

しかし、多くの人たちはたとえ汚れていてもキリスト教と教会に護られた秩序の中に残ります。

それはそれで彼らの意思なのですね。みんなが慣れない正論の世界へ行きたいわけではないのです。

先に挙げたように、ホモサピエンスは適応力は高いものの改革力に乏しい生命体です。

無理矢理自然を破壊し尽くそうとはしなかったから何万年も生き抜いて来たのですね。

資本家が自然を破壊しようとすると大量の市民が抵抗し始める。

それ程に、変化より適応を選ぶ生き物です。

であるからして革命は滅多なことでは起きないし、人々は文句を言いつつもその時代に適応して自己洗脳の世界を生きているんです。

スポンサーリンク

例外としての「働く女子」 すべての歪みは女性にぶん投げておけ!の悲鳴

ここまでは総論的に書いて来ましたが、現状分析の時点で例外があります。

資本主義(国民皆兵)システムは、基本的に利権を男性で独占するシステムとして成長してきました。

女性は「産み育てる性」と勝手にレッテルを貼ってシステムから長いこと除外し、悪い言い方をすれば無料の家政婦と産む機械扱いして来たわけです。

しかし、資本主義の成長スピード、すなわち男性陣の欲望の肥大化スピードが実体経済に見合わなくなってくると、女性にも商品し労働してもらわなければならなくなったんですね。

それが戦後の女性運動に繋がって来ます。

男性は既得権を絶対手放したくない。だから表向き制度は作るものの、家事育児をしない権利も手放さないし、会社で出世する権利も手放しなくはありません。

少し上の世代が当たり前に享受した権利を手放せと言われた現代の男性の被害者意識は相当なもので、ハラスメントが社会問題になるほどまで、男性たちは「特権を奪われた!」と抵抗をしています。

ぶっちゃけて言いますと、この過渡期を生きて社会に争おうとする女性のストレスは尋常ではありませんから、私達世代では女性の方が平均寿命が短くなるんじゃないかと思うほどです。

じゃあ、社会学的に何か制度を変えればすべてが解決するか?というと、私はNOだと思います。

古い成功体験をキッチリ持っている世代が退場するまで、あと30年ほどは「女をテキトーに苦しめときゃよくね?しんどい?いや、知らねーし」という時代は続くでしょう。

まあそれでも男尊女卑レベルは昭和よりマシですから、もうそれはどうにもならないので諦めて男性を立てる方向に徹する方がコスパは良いですね。

それでも戦うのもカッコいいですし、男尊女卑を手玉にとって女の武器全開な人もカッコいいと思います。これこそ個性ではないでしょうか。

虐げられて可哀想、なのは間違いありませんが、既得権者が特権を手放すことは考えられず、そのことで苛立って不幸を振り撒くのはコスパ的には微妙かもしれません。

スポンサーリンク

洗脳されているけれど、それを笑い転げながらナナメを生きる

30代後半の私がとりあえず辿り着いた答えがこれです。

封建社会と違って、今はそれでもかなり個性を出す余地があります。

せめて消費だけでも個性を出せるって奇跡的にラッキーです!

だから、文句は言わんと、給料さえ良ければ苦手なことも何とかやろうかなぁ、と思っているわけです。

そもそも仕事を選べるほど自分は有能じゃなかったんですね。日本型雇用で無限定的に天から与えられた仕事を愚直にするくらいしか、残念ながら能力がなかったんです。

だから、資本主義が喧伝する「個性」に踊らされると、99%の凡人は自分の首を絞めることになります。

頑張れば、時間さえかければ、みんなプロ野球選手になれる?みんな坂道アイドルになれる?みんな一部上場企業の社員か国家公務員になれる?みんなバリキャリOLになれる、なるべき?

違いますよね。この世で目立たないけれど社会インフラを整えてくれる大人がいるからこそ、芸能人が輝けるのです。

有名人になれ!という戦後の教育は明らかに間違っています。(私はそれが明治維新政府の自己正当化に感じる)

そんなアホくさい嘘っぱちに流されているうちは、ただただ人生が辛くて辛くてたまりません。私もものすごく辛かったです。

地道じゃだめだ、活躍して、周りから良いねって言われて、好きなことで食べて行かないとダメなんだ、自分はダメなんだ、クズだ、こんなことして何になるんだろう…と鬱々とした20代を送りました。

でも、私の好きなゲームのキャラクターの沖田総司さんが言っていました。

「僕に出来ることなんて、ほんのすこししかないんだ。目の前にいる敵を斬る。それだけなんだよ」

その言葉に出会ったのが今から10年前。そこから自分の無能さについてずっと考えてきた結果、自分はいかに何も出来ないか身に染みて分かりました。

何もできないからこそ、努力と時間をかけて、お給料分の恩返しがしたい!と思えるようになり、そこからは仕事が楽で楽しくなりましたね。

以前はもっと「オラオラ、私様に似合う仕事寄越せや。そんなことも出来ねえなら人事は無能だな」というモラハラ思考があったように思います。

労働について身の程を知った時、あれほど無茶苦茶に使いまくっていた消費も1/5くらいになりました。

もっと人より良い家に住み、宝飾品に囲まれ、美食を楽しみ、世界を旅行し、誰もが羨む名刺を引っ提げ、子供には最高の教育を……と無限に欲を掻き立てられ、その欲は無限に引き出されます。

欲を掻き立てられ過ぎると、脳が休まらなくなり、逆に不安が増えて不幸が増してしまいます。

何者でもないことに耐えられず、無茶苦茶してしまう時には、資本主義以前に帰るのが一番。私には仏教の教えが一番しっくりりきました。

宗教を勧めているのではなく、仏教の名言?をいくつかご紹介してみます。いずれも脳みそを最低限しか使わずに幸福になる近道を端的に記しています。

・足るを知る(満足を覚えて不平不満を垂れる癖を戒める)

・自因自果(すべての結果は自分に原因があるので、他責に逃げない)

・無明の闇と諦観(私達は何も知らない。だから物事を真摯に明らかに見ようとすべし)

繰り返しになりますが、改めて古今東西の哲学者や宗教家の記したエッセンスを説明いたしますと、

・オレたちはまだちっぽけで手のひらの中には何もないけど、欲しがりません。だってそんなに必要ないから。

・幸せは自分の心が決める。自分の機嫌は自分で取る。自分を満足させるのは自分。

・無知の知。超人(幼児)のような哲学的な曇りなき目で諦観(明らかに見て、諦める)する。

こういう哲学的な視点を投入すると、資本主義に煽られてあっちへこっちへフラフラしにくくなります。

風に煽られると不安になったりイラッとしますよね。それが減ります。

何事も理屈や正解が分かるゲームの方がやりやすいってことです。

しかし、既にお気づきのことと存じますが、資本主義がしたことはこうした伝統的なエートスの破壊でした。

そうした無頼の若者を礼賛し、またその子供も反社会的に染め上げることで自己増殖しているわけで、私達世代はむしろ資本主義のエートスでのみ育って来ているはずです。

それを指して洗脳だー!と本稿では呼んでおります。

スポンサーリンク

自分軸、他人軸、どちらも極めればカッコいいが、中途半端は不満が増える

自己啓発の世界では「自分軸」を生きろって絶対言われます。

スピリチュアルの世界では「自分軸を生きられないのは前世のカルマや生霊のせいだ」と言います。

でも、です。散々述べたように、他人軸で生きている方が楽なんですね。

社会や親の敷いてくれたレールを走っていれば、生きるのに必要な賃金と感謝は入ってくるのです。

そもそも人間は自分軸で生きなくても幸せに健康に生きられるようにプログラムされています。

だから、他人軸でも自分軸でもどっちでも良いんです。好きな方にすれば良いんです。

他人のレールを生きることをダサいとアーティストは言いますが、それはただの自己弁護でしかなく、他人軸を極められる人は最高にカッコいいですよ。

いずれにせよ、どっちつかずでグダグダ不満を垂れることこそが人間にとってはストレスです。

私は、周りから白い目で見られながら自分軸で生きています。

みんなから好かれるわけではなく、みんなと話が合いません。デメリットもたくさんあります。

ただ、自分の意にそぐわない形で、親の奴隷として生きざるを得なかったことは辛かったですね。

ですから親と、親が組み込まれていた「資本主義の倫理と精神」から逃れられた時、ものすごくブレイクスルーしました。

けれどもそれは、私の家がド平民、ドパンピー、中の下の家庭だったからであり、資本家の家庭のお子さんは脱洗脳するメリットがありません。

家系を支えてさえいれば一生子々孫々食うに困らないのに、下手に自分軸とか言って家を壊したら大損ですからね。

出世競争だって、体力と家族の同意さえあれば楽しいからいくらでもやれば良いと思う派です。

哲学や学問としての古典宗教は弱者にとても優しい学問です。

誰も助けてくれない時、ほとんど無料で抜け道を教えてくれるんですから。

スポンサーリンク

他人に迷惑をかけなければ、どんな悩みも挑戦もかならず成長の種となる

この十年ほど障害者として生きてきて、普通の同世代よりはかなり苦労してきたのは間違いありません。

その経験から思うに、公序良俗に反することと犯罪と他責と他罰以外は結構何をやってもこの世はOKです。

生活保護を受けたって良いし、家族に養ってもらっても良いんです。

ただ、犯罪やマナー・モラル違反は自分の身を危うくするだけなのでやる意味がありません。

同じ理由で、いっときの激情に任せて他人を罰してみたり、ちょっと責任取るのが億劫だから人のせいにしたりすると、本人は忘れても相手は忘れません。

そうやって他人に汚物を撒き散らしていると、年を取れば取るほど人が寄り付かなくなって孤独になって病みます。

人間にとっていちばんの不幸は孤独だと言われています。

べつに高収入でなくても、美男美女でなくても、個性的でなくても、良い仲間に恵まれてさえいれば人生は幸福なんじゃないかな、と思っています。

私個人は病気のデパートなので一般論からすると滅茶苦茶不幸な人間です。

でも、本人はいたって不幸を感じたことはありません。

健康ではないぶん体には気をつけているし、特段高望みをしていないし、孤独ではないし、少なくとも不幸な状態ではないわけです。

恐らく、無理して幸せになろうというのは強欲なんだと思います。

人間はなれないものにはなれないけれど、なれるものになるのはそんなに難しくありません。

自然体でほどほどに生きていれば、ほどほどに人は寄って来て、ほどほどに人が離れていって、バランスが取れて、ほどほどになる。

東洋の教えーー中庸こそが自己啓発の基礎の基礎ではないかと思う2022年の冬でした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました